バウムクーヘンレコーズ  渦を巻く徒然なる日々の記述 

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08.08.31(晴れ)

小磯にへばりつく私。それを撮るゆうこりん。ゆ「そろそろ行くよー!」エ「ええ…なますが呼んでるよー。」★
体がだいぶ良くなってきたので、今日はスタッフゆうこりんと映画を見に行こう!と出かけてみるも、あいにく見たい映画は長打の列で諦めた。下町に戻って、一杯やる?ということになり、門前仲町へ行き、立ち食い寿司で昼間からちょい飲みをして、寿司をつまむ。その後、富岡八幡宮の参道にある大好きな根付のお店‘小磯’を覗いたら、ものすごく好みのなまず根付を発見。しかし、値段は7万円にとどく高価なもの。庶民のお財布からは、こんな大金すぐには出ません…泣。いつまでもなまず根付にかじりついている私を小磯からひっぺがしたゆうこりんと、薬膳喫茶でのんびりお茶。しかし、あの根付、欲しかったなあ。小さくて美しいものに心惹かれる私だけれど、高価な宝石にはなぜかあまり興味がない。お金持ちだったら、買っているのだろうか…いや、きっとお金持ちだったとしたら、根付コレクターになっているのだろうよ。人の好みって、ほんと不思議ー。

08.08.30(晴れ)

さるちゃん。いろんな習い事をしていて、いつも明るく、元気で前向き!★
昼、仲良しゴールドメンバーのひとり、さるちゃんこと長谷川由美ちゃんが退院後のお見舞いに来てくれた。「今日のテーマはねえ、非・日常だから!」と、青いバラのブーケと、大胆なデザインで有名なお店のケーキを箱一杯に抱えて。家にこもりがちな私が、日常にうんざりしているのを察してくれたのだ。こうゆう見舞い方、すごくさるちゃんらしくてちょっと感動。ケーキはどれもすごくおいしいのだけど、「なんか、作り手のエゴが強すぎるね。これでどうだ!っていう感じが丸見えで、食べ手のことをあまり考えてない。」と厳しい判定を下すさるちゃん。あははー、自分の持ってきたものでもばっさり切って捨てる感じ、フランス人みたいだよ。とかなんとか言っている間に、あまりにも高く盛られたモンブランが、真ん中からぼっきり折れて、皿に落下。ふたりで大笑いする。「うわー!お見舞いなのに縁起でもないねえ。だから言わんこっちゃない!」と、再び痛烈な批評を繰り出す。いいねえ、さるちゃん。胸がすかっとするよ。ところで、日本人女子のとても丁寧な気遣いは、基本的に大好きだけど、時々遣われすぎてこちらも疲れてしまうことがある。多分、遣っている本人はさらに疲れているだろう。遣われ遣ってつい疲れ。何のために遣ったのだかわからなくなることも。だから、人に気を遣っていることを悟られない気遣いというものが、一番高度で理想的なのだろうと思う。さるちゃんは、気遣いにオリジナリティーがある。自分のキャラクターをちゃんと知っていて、そこを生かした無理のない気遣い。気遣いとは表層的にやさしげにすることだけじゃないのだな、と彼女の笑顔と青いバラを交互に眺めながら思う午後。

08.08.29(晴れ)

猫をマンモグラフィーにかけたら、うすーくぺらぺらになるのかしら…?ピ「変な想像にゃめて!」★
本日、病院デー。術後の定期健診と検査結果を聞きに行く、という目的もあるが、今日のメインエベントは初のマンモグラフィーによる乳ガン検査!危ないことにこの歳まで乳ガン検査を受けたことがなかった。それで、今回申し込んだというわけ。マンモグラフィーといえば、おっぱいをこれでもかと押しつぶすことで有名だが、そもそも豊かな乳持ちの女性ならばいざしらず、私のこんな貧乳をどうやってつぶすのかが見物だ。まず、前空きの検査着に着替えて、レントゲンのような機械の前に立つ。真上と斜め方向からぎゅぎゅーっとプラスチックの板のようなものでおしつぶす。痛いことは痛かったけれど、透明な板の下で薄く引き延ばされる、見たこともない自分の乳房の様子が凄すぎて、「うおおおお!」と驚愕の声を上げてしまった。終わった後、かわいそうな貧乳2つには、うっすらと赤いあざがついていた。普段、息苦しいという理由からブラジャーが好きでないのだけれど、マンモグラフィーに比べたら、ブラジャーなどへのかっぱだと思えるようになって嬉しい。これで年齢とブラなしによる、垂れ乳の危険性はかなり減りそうだ。なんて、ふざけた調子で書いていられるのも、検査結果が以上なしだったからだろう。病院の同じフロアには、乳ガンと戦う女性の姿が多く見られた。豊かだろうか貧弱だろうが女性の大切なシンボルにはかわりがない乳房のガン。ガンと戦う女性への敬意としても、きちんと毎年検査をしようと思う。

08.08.28(雨)

綺麗に咲きました。日本らしい青の朝顔。★
入谷の朝顔市で買ってきた朝顔が、今年はよく咲いてくれる。今朝も青と紫の二色があでやかに咲いていた。朝顔といえば、小学校時代に、夏休みの宿題として毎年だされていた朝顔の観察を思い出す。1学期の終業式の日、がさばる荷物の中でもっともがさばるものが朝顔の鉢であり、しかも子供時代の私は、植物と波長が合わないのか生来のそこつ者が災いするのか、植物を枯らすのが大得意だった。手をかければかけるほど、あてつけのように枯れてゆく植物たちがうとましかった。特に、地面を切り取られて鉢植えにされたものや脚を切られて花瓶の中に押し込められた植物とは相性が最悪だった。反対に、山の中で自生するものを見たり、愛でたりするのは好きだったように思う。母が、若い頃に習った華道を生かして花を活けているのを見ても、「ははー…こんないがいがした剣山に刺されるなんて、花も災難だ。」としか思えなかったのである。大学時代、誕生日にボーイフレンドからもらったサボテンに至っては、相当私のことが嫌いらしく、細かなとげをピッピッと飛ばされて、いつもどこかがちくちくした。今でも、動物と植物、どちらがわかりあえるか?といわれたら、断然動物なのだけど、そんな私でも最近少し変わってきた。鉢植えでも切花でも昔と比べたら格段にうまく付き合えるようになったのだ。なぜかはよくわからない。大人になって、私の体から落ち着いた気のようなものが出るようになったからかもしれない。それほど植物というものは、敏感に世話する相手の心を読む生き物なのかもしれない。

08.08.27(晴れ)

この、力をめいっぱい入れたらぼっきりいってしまいそうなアナクロなハンドルがいいんです。★
仕事の所用を片付けるために、車で出かける。さて、我が家の愛車はローバーのMINI、メイフェア。うちの場合、車以外の乗り物も基本がクラシックなので(たとえば、Parisで乗ってるモペット‘Motobecane’しかり)クラシックカーに乗ってるだとか、不便だとかそうゆうものは一切感じたことがないのだけど、たまに駐車場で現行の国産車と並んでいるのを見たりすると「やっぱりこうしてみると、アナクロだなあ…。」と思う。もちろん、このアナクロは‘良い’意味で。そして、新しいデザインにもいいものはあるけれど、どうして古いものの方が大抵なんでもいいのか不思議だ…と、定番の思考にふけってしまう。ところで、この車の中で私が一番好きな部分といえば、なんといってもくるくるハンドルを回して開閉する窓。デザインでもなく、チェック柄のシートでもなく、このくるくるハンドルである。今ではすっかり珍しくなってしまったくるくるハンドルだけれど、これをくるくるするたびに「よいなあ〜」としみじみ思う。そういえば、先日どこかの街で、集中豪雨の際に車から脱出できずに亡くなった方のニュースが放送されていたけれど、この方の車もくるくるハンドル窓だったら、もしかして助かったんじゃないか?と思った。水に浸れば電気系統が一発でアウトになる便利な最新式の車。でも、本末転倒な便利さって、一体なんなんだろう?と思う。私にとって、便利すぎは最強の不便。だから、ときどき車の窓をくるくるしてあけたり、いちいちはがきを丁寧に書いてみることで、便利すぎの不便な生活とのバランスを取っているのかもしれない。

08.08.26(くもり)

逝去したデジカメ・2代目サイバーショットにはいつも猫村さんが寄り添っておりました。★
昼、映画評論の原稿を書くために、都内に資料を探しに出かける。退院してからというもの、何か外に用があるときはOに車を出してもらっていたのだけど、そろそろひとりで動けるようにならないとOの仕事にも支障が出るなあと思い、今日は初めて地下鉄に乗って出かけた。最近、電車の中で携帯電話をぴこぴこしている人が、前に比べるとずいぶん減って、本を読んでいる人が増えた(というか、戻ってきたというか)なあと思う。本を読んでいる人を見ると、なぜかすごくほっとする。生活全般にいえることんだあと、最近つくづく思うのだけど、人間の生活は、アナログであればあるほどいいということ。インターネットが普及して、世界中がものすごく近くなったり、便利な面もたくさんある。それでも、人間はやっぱり動物の種類のひとつで、自然界の中で、特別なものでもなにもない。‘考える’という部分だけが、特別発達した動物ではあるけれど、やっぱり体も精神も動物であるということを忘れちゃいけないと思うのだ。TVをだらだらつけない、音楽をよく聞く、本を読んで文字というシンプルな情報を元に自分だけの映像を頭の中でめぐらす。こうゆうことを怠ってしまうと、人間は動物として退化する。そうゆう意味では、東京は動物としての人間が退化しやすい街だと思う。だから、なだれ込んでくる情報を選び抜いて、余計なものはシャットアウトしないと、私は東京に住むのが辛くなる。いつでも、動物であることを忘れないためにも。さて、目的地について、久しぶりにやってきたハイパーな都心の写真でも撮ろうかと思ったら、あれ?画面が真っ白。ハイパーな電子機器がハイパーな街で、ついに壊れました。壊れたデジカメをまじまじと眺めると、ダイヤルは欠けているし、表面もぼろぼろ。デジカメと過した激しい日々を物語っているかのようだった。ご苦労様。安心して、あの世へお行き。

08.08.25(雨)

聖★おにいさん(左)。右は、‘臨死!江古田ちゃん’です。この漫画も生臭いまでのシュールレアリズムで面白いです。★

イエスの古文書。宗教の世界をここまで面白く痛快に読ませてくれる本は、なかなかないのでは?日本語訳の校正がいまひとつ甘いところが気になりますが、読み応え十分のお勧めの書。★
そぼふる雨の月曜日。月曜日は、色でいえば、堅い事務机の灰色みたいだったり、きりっとしたシルバーというイメージがある。そこに雨が降ってしまうと、なんだかもう、この世の色が全部あせてしまったかのような気持ちになる。でも、それが嫌かといえば、決してそうでもなく、シルバーと白い雨が相まって諦めを通り越した清廉な気分といえなくもない。ところで最近、読んでいる本がある。アメリカの作家、アーヴィング・ウォーレス著‘イエスの古文書’という宗教ミステリー。宗教ミステリーといえば、近年世界的大ヒットした‘ダヴィンチ・コード’を思い出すが、これは1978年に書かれており、こうした宗教ミステリーのさきがけといえるかもしれない。ストーリーは、イタリアの考古学者、アウグスト・モンティがローマにほど近い、オスティア・アンティカの遺跡で、イエスの実弟ヤコブの手による第5の福音書を発見したところから始まる。その宗教史最大の奇跡の聖書出版にからむ宣伝をまかされた、スティーブン・ランダルが主人公。本は上下巻にわかれているのだけど、特に下巻の息をもつかせぬスピードと高揚感は見事なできばえ。元々、私はミステリーにあまり興味がない。それで、最初はたらりたらりと読み進めていったが、人間が恋焦がれる宗教というものを考えるのは大好きで、そのあたりからはまった。その理由は、作者のキリスト教に関する膨大な知識量と、それにからむ、世界の成り立ち−キリスト教がどう、商売に結びついているのだとか、聖職者といわれる人たちが、いつの時代も自分の権力の座を得るために(あるいは、神の名の下に)汚職に手を染めているのだとか、そんな現実の中でも、そこにかかわる人たちが、やっぱり神という光を求めてしまう性だとか、今までまっこうから宗教について考えてはぶち当たっていた壁の正体がどんどん明らかになっていったからだ。以外な結末もさることながら、人間社会の不条理さとそれに利用される宗教の側面を見るのはとても面白かった。真偽のほどはわからないが、イエスは現代の宗教画や十字架像に見るような、かっこいい容姿ではなかったという一説も面白い。そして、イエスの生きた時代、庶民の言葉であったアラム語が非常に難解な言語で(たくさんの古文書が、このアラム語で書かれている)現代の翻訳家たちの力量によって、マリアが処女懐妊したというキリスト教神話の核なる部分も、普通の人間的な妊娠をしただけという意味合いにも取れるという、素人の私たちからしてみればびっくりな事実も。ところで、モーニングに連載中の‘聖★おにさん’も大好きです。天上界で活躍しているイエスとブッダが東京の立川でつかの間のヴァカンスを取るというコメディ。日ごろから考えていた、イエスもブッダも元はただの人、というフラットな視点がそのまま漫画になったかのよう。スーパースターはトイレにいかない、なんて夢見がちな概念の逆を行った最もすごいやつって感じがします。

08.08.24(くもり)

見た目はとってもおいしそうなんだけど。いや、おいしいんだけど、プロの味には程遠いの〜。★
寝て、食って、できるだけ仕事の日々が続く。そんな中、弱った筋肉を鍛えるために、近所にある区のスポーツセンターに通い始めた。ランニングマシーンを蝿がとまりそうなスピードに設定して、2、30分歩く。その後、1キロのダンベルをもって、腹筋に力が入り過ぎないように気をつけながら、上半身の運動。その後、マッサージチェアーで本を読みながらマッサージ。これが勝手に私がこしらえたメニュー。最初、こんなの運動のうちに入らない!とは思ったのだけど、やってみると案外効果的でなかなかよろしい。続けてみよう。本来、マシーンを使う運動はあんまり好きじゃないのだけど、水泳もバレエも今はとても無理だから。午後、大量の野菜在庫をどう消費するか悩んで、普段あまり作らないお菓子を作って見た。その名はかぼちゃプリン。カラメルはほろ苦く上手にできたものの、プリン部分は「プリンというよりは、そのまんまかぼちゃペーストなのでは?」という感じで、お菓子の難しさを知る。もうひとつ繊細な感覚が必要ですな。

08.08.23(くもり)

はい、ファルシがどーん!力ある野菜と肉のハーモニーです。★
なんとなくほっとする、土曜日の朝。ここしばらく、家事をリハビリ代わりに掃除や料理に汗を流している。しかし、まだまだ腹部の腫れはひけておらず、ちょっとした動きに難儀してみたり。それでも、毎日少しずつ下半身のあらゆる部分の稼動がよくなっている気がしている。時々、バレエのバーレッスンを思い出して、えい!と足を上げてみたりするが、とたんに‘黒ひげ危機一髪’の痛みが走る。いででで…、む、無理は禁物だ。夜、Oの母君が送ってくれたたくさんの有機野菜をつかって、ファルシを作る。この前も作ったのだけど、えらい人気であっという間になくなった。それで今日は天板ぎゅうぎゅうにたくさん焼いた。残ったら、明日のご飯に回そうと思って。でも、あっという間に完食。宵越しの銭は持たぬ勢いで、宵越しのファルシも持たなかったなあ。

08.08.22(くもり)

ピキのように、猫のように、眠っていた時期もありました。★
週の仕事おさめ、金曜日。まだまだ助走とはいえ、なんだかんだと仕事にとりかかっている。それでもやっぱり普段に比べたら、半分寝ているようなペースで、実際寝ている時間も多い。過去数年、こんなに寝る時間がたくさんあったかなあとぼんやり思う。大学を出てからというもの、リスのような動きで、常に激しく生きてきた私だけれど、大学生の一時期、冬眠しているんじゃないか?と思うほど、眠ってばかりいる時期があった。もうずいぶん昔のことなので、白状してしまおう。大学一年生のとき、実は仮面浪人をしていた。私の出身校は‘のだめ’の舞台となった音大で、とても良い学校だった。けれど受験当時、そこは第一志望の大学ではなくて、希望する音大に落ちた私は、どうしてもそのもやもやした気持ちを断ち切ることができなくて、こっそりと次の年に目指した大学へ入りなおそうとしたのだ。音大、と聞けば優雅な印象を受けるかもしれないが、普通科目に加えて専門科目、実技、年に数回の学内演奏会、オーケストラ、吹奏楽、その合間を縫って個人練習をせねばならず、ほとんど体育会系のノリで、まじめにやると目の回るような忙しさだった。平日の昼間は、大学の学業でとても受験勉強なぞできない。それで、夜と週末をそれにあてた。目指した大学が国立だったのもあって、センター試験用の勉強もせねばならず、頭がぐるんぐるんした。そんな状況の中、大学で取った第一外国語がフランス語、第二外国語はドイツ語。いや、自ら希望したのはフランス語だけで、希望者の多い英語にあぶれて、第二外国語がドイツ語になってしまったのだった。ヨーロッパの言語が第一、第二になる生徒はほとんどおらず、私は運が悪かった。なんて書くと、ドイツ語を学んでらっしゃる方に失礼ですね。でもまあ、私にはドイツ語が向いていないプラス、右も左もわからないフランス語とドイツ語を仮面浪人の身でいっぺんにやらねばならない非常にしんどい身だったわけです。そんなわけで、こつこつ出来るだけがんばって1年が過ぎ、いよいよ受験シーズン到来。ところがどっこい、目指す大学の願書提出締め切り日をころりと忘れ(というか、社会性ゼロだった私には、そんな概念もなかったように思う)あっけなく、受験失敗。いやー、泣くに泣けず、笑った笑った。中学の頃から音大を目指して、狂ったように勉強し続け、大学合格、すぐさま仮面浪人。そして願書提出忘れにてジ・エンド。性根尽き果てるとは、まさにこのこと。そして、ほぼ一年に及ぶ、長い冬眠生活に入ってしまった。1日のうちに起きているのは3,4時間という病的な眠り方だった。その1年間の冬眠期により、私はクラシック打楽器奏者としての未来を失った気がするのだけど、別な見方をすれば違う道を切り開くきっかけにもなったのか?人生、その時点だけの結果は、決して結果じゃないんだよな。失敗が失敗を呼んで、現在、こうして日記書いてます。さて、明日に向かってゴーするか。

08.08.21(晴れ)

いもや。時々むしょうにここへ来たくなるのには、ちゃんと理由があるのです。★
家にいるのもそろそろ飽きた。飽きた、などという贅沢なことを退院後10日ほどでいえるようになるなんて、幸せなことだ。体が戻ってくるにつれ、仕事への焦りもやっぱり戻ってくる。こうして日記を書きながら、たまに過去のものをつらつらーと読み返してみることがあるのだけど、なんとまあせわしない人生かと思う。せわしない原因としては、本当に日々の活動量が激しいのもあるし、それをかなり事細かに書いているので、なおさら印象がせわしないのと合体しているのだろう。人は生まれてこのかた、皆せわしないものだと思う。自分のせわしなさの捉え方によって、このせわしないが、ただの忙しいになるのか、充実したものになるのかが決まるのではないか?私はまだまだ、自分のせわしなさをつかみきれていないような気がする。今後の意味あるせわしない人生のためにも、珍しくせわしなさ下火の今だからこそ、やるべきこと、考えるべきことがあるんじゃないかな。無意味に焦っている猫沢よ。夕方、神田神保町の安くてうまいてんぷらの店‘いもや’に行き、もりもりとご飯を食べる。650円という破格のお値段、素材のクオリティーもさることながら、私はこの店の殺風景なまでの清潔感が大好きだ。余計なものはなにもない。白木のカウンターのみの客席、メニューも品数もいたってシンプル。そして、職人さんたちの体に染み付いた無駄のない動き。ここへ来くれば、「てんぷら定食、お願いします。」と一声かけたなら、あとは運ばれてくるのを静かに待ち、無心で味わうだけだ。静かに待っている間は、職人さんたちの美しい定型の動きを眺める。気持ちがごちゃごちゃしたとき、日常にすこし倦んでしまったとき、ここへくると、まるで静物画の世界に入りこんでしまったかのような静かな気持ちになる。動かないはずの静物たちが見せる、美しい定型の動き。そうゆう清廉な空気の中、濃いうまそうな油の匂いが立ち込めて、よりいっそう、運ばれてくるてんぷらが生き物のようにつやつやと感じられる。ああ、うまい…。

08.08.20(晴れ)

シップ、貼りました。以後、気をつけます・・・★
朝、洗いものをしていて手を滑らせ、叩きつけても容易なことでは割れないフランスが誇るガラス食器、デュラレックスのコップを足に落として打撲。早めに退院したのはいいが、家に戻ってきてからというもの、ちょこちょこと怪我ばかりしている。普段から、動きが粗雑でひどくおっちょこちょい。その上、パーカッションで鍛えた左右の腕の神経感覚が災いして、動きに連動性を欠く。つまりこうゆうこと−お味噌汁を食べようとして、左手が椀をつかむ。右手は箸をもっていて、椀が口元に来るのをまっている。ところが、左手は、椀を口元に届ける前に傾けてしまい、結果、味噌汁が太ももの上に、どばー…。こんな話をしても、「うそでしょう?」と虚言壁扱いされそうだが、事実、パーカッション最全盛期であった音大時代に、何度学食で、味噌汁どばーをやったことか。書き物、お箸、など習慣モノは右利きだが、その他の感覚的な動作のほとんどが左利きの私は、日常、右なんだか左なんだかわけがわからなくなること茶飯事なのである。私の中で‘右’というのは、社会的に‘マジョリティー’というイメージ。‘左’は‘マイノリティー’である。ところが、私にとって感覚的なマジョリティーは‘左’なので、‘右’を「ひだり!」と言ってしまうことも多い。車の助手席に乗っていて、「あー、次は右ね!」ととっさに言う場合、大抵、それは左のことを指しているわけで…って、一緒にいる人はたまったものではない。わかりにくい話が長くなっちゃったけども、そんなわけで、今日も右手と左手の動きがめちゃくちゃになって、気がついたら甲の上に、がっきーん!とコップを落としていたわけで…足はいちじるしく腫れたわけで…。

08.08.19(晴れ)

自家製トマトソースで煮込んでみました。ハンバーグってなんでこんなにおいしいんだろうねえ。★
ものすごい食欲、驀進中。朝、目が覚めると頭の中に食べたい物リストがダダダダと並び、それに向かってひた走っているような状況。ところで我が家には、体脂肪率が測定できる体重計があるのだけど、食べても食べても体重は増えるどころか減るばかり。餓鬼化した私を横目で見つつ、Oが「傷を治すための栄養に全部いってるんじゃないの?」と、呆れ顔でフォローするが、体脂肪率を量ってみたところ、げっ!ものすごく上がっていて、それに呼応するかのように筋肉量が減っている。もともと筋肉質の私は、見た目よりもすごく重い。同じ低身長のプチ・マドモワゼル友達の体重は、大抵私よりも4,5キロ軽いのである。だから、下手に私をお姫様だっこなぞしようものなら、う”っ…と動物じみた声をあげて、両腕が死亡すること間違いなしなのだ。日本でもフランスでも「小さいのはかわいいからいいね。」などと言われることが多いが、私の場合、小さくて重く、そして凶暴といったところか。自分をたとえるなら、文鎮。お習字の紙を留めるあれである。そんなわけで、体重が減っているのは痩せたわけではなく、ただ、筋肉量が落ちて、脂肪がたくさんついているだけという悲しい事実が判明。これは、そろそろ暴食をやめて、出来る範囲で筋トレでもはじめたほうがよさそうだ。とかなんとかいいつつも、どうしてもハンバーグが食べたくなり、人形町の肉の名店‘日山’にて、ひき肉をたんまりと買い込み、煮込みハンバーグを作る夜。思えば、生まれて初めて煮込みハンバーグなるものを作ったなあ。もぐもぐもぐ…こりゃ、いける!

08.08.18(晴れ)

仕事部屋にスタッフゆうこりんが買ってきてくれた江戸風鈴を下げてみました。ちり〜ん・・・と、心地良い音に心和みます。★
久しぶりに、仕事部屋を少し片付けて、本格的な復帰への意欲を高める朝。精神的にはずいぶん充実してきたのだけど、まだまだ体は追いつかない。私の場合、普段からものすごく精神ばかりが強くて体がそれに追いつかないなあと感じることが多い。大抵、体が参ったり倒れたりする原因として、精神力の暴走があげられる。私の中では、カラダちゃんとセイシンちゃんという相反する2つのキャラクターが存在していると認識する。ちょっと臆病で人並みかそれ以下の力しか持たないカラダちゃんは、前向きでややもすると暴力的なセイシンちゃんにいつも振り回されっぱなしである。カラダちゃんが「ねえねえ、疲れた。もう寝ようよ。」といくら懇願しても、「きゃー!この本面白いっ。今夜は朝まで読書だね!」とセイシンちゃんはまるで聞く耳持たずなのだ。辛抱強いカラダちゃんとて、堪忍袋の緒はいつか切れるわけで、いきなりすべての回路を遮断して、ところかまわずバタッと事切れる。それではじめて、セイシンちゃんが「ごめんよう。ちゃんとカラダちゃんのことも考えるからあ。」と泣きが入る。が、カラダちゃんが回復したのを見計らって、また暴走し始めるのだ。まったくもって面倒な構造。しかし、アーティストだのゼロから何かを生み出す人の大半が、強靭なセイシンちゃんの扱いに苦労しているのではないかと思う。セイシンちゃんは強靭なくせに実体を持たない気体のようなものだから、カラダちゃんという、この世に繋がれているための‘箱’がなくては存在しえない。いうなれば、私という人間がこの世に存在している形をなぞらえると、風船みたいなものだろうか。もうちょっと、カラダちゃんが強くなって、セイシンちゃんのコントロールが利けばいいと、目下思案中である。ところで今日は、仕事の進行で不安な部分が出てきて、焦った。が、最終的には予定通りに進められそうなことがわかり、一安心。さて、カラダちゃんをいたわるとするか…。

08.08.17(くもり)

ネグリジェ&ぼさぼさ頭のままで失礼!かなり元気になってきました。★
スタッフゆうこりんが、お盆休みを終えて長崎から帰ってきた。今朝、一足先においしいものが詰まった宅急便を送ってくれていて、漫画‘美味しんぼ’の長崎編にも登場する‘ド・ロさまそうめん’だの、地元の人御用達のめんたいこだの、とにかくうまいものが満載。しかし、お見舞いと称していろんな方に毎日のように美味しいものを頂いている私。「おまえ、ほんとに幸せ者だよなあ。こんなに美味しいものたくさんもらって。」とO。ほんとだねえ。皆さん、ありがとうございます。夜、長崎のおいしいものづくし、全快直前プチパーティーをする。日に日に体が回復してゆくのを感じるが、やはりまだ生活の中の当たり前にできるはずの動きに難儀する。たとえば、ベッドに横になるとき、そして起き上がるとき。おなかに力を入れるととたんに激痛が走るので、ゆっくりと腰を下ろし、ひじをついて、そこを支点にして寝起きをする。少しでも力の入れどころを間違えば‘黒ひげ危機一髪’の刑が待っている。いででででで!

08.08.16(雨)

ピキとミミズク・クッション。あら、あなたたち、なんだか似てるわね。猛禽類と猫って、やっぱり肉食顔をしているなあ。★
今日は、仕事デー。入院前に一度入稿した原稿の校正をどかんとまとめてやらねばならぬ。しかし、体も頭もまだまだアイドリング状態で、長時間の仕事に耐えうるかどうかが心配。合計約200ページもの原稿をすべて見直して、校正箇所を書き込んで行く。しかし、はじめてみると案外だいじょうぶだった。もしかしたら、仕事にも枯渇していたのかもしれない。自分を仕事人間だなんて思ったことは一度もない。どんな些細な原稿を書くにも、新しい曲を考えるにも「やだー。」と、子供みたいな文句をぶうぶう言いながらやっているのである。そんな自分でも、久しぶりに仕事に集中するのが気持ちよかった。上がった原稿を宅急便のパックに入れて、一安心。しかし、入院費を払ったお陰で、我が家の家計も風前の灯だし、早く元気になって仕事やんないとなあ。